由緒・沿革
由 緒
明治24年、永山屯田兵の入植者のうち、岡山県出身の兵たちが自身の出身地の氏神様である天照大神、大國主神の御分霊を敷き、現在の永山駅の裏に小さな祠を建てて心のよりどころとして崇拝したのが始まりである。その7年後には明治社殿を造営したが、同年、鉄道手塩線(現在の宗谷本線)の開通に伴い神社への参拝が困難となり、明治45年現在の地に神社を移転した。
大正9年には、北海道屯田の生みの親である永山武四郎将軍を永山神社の祭神として明治政府に対して出願し許可され、開村30年記念事業として、翌年に大正社殿(旧社殿)が造営されたのである。
大正社殿が建てられてから70年以上が経過した平成5年、長年に亘る風雪に損なわれ、老朽化も甚だしい状況であった。そのため、町内有志の方々の多くの声により、永山神社御創始100年記念事業として、上川管内最古の神社であり、屯田兵開拓の祖神を祀る由緒ある鎮守の社にふさわしい神明造りの現在の社殿を御造営した。
現在、永山武四郎 歴史資料館推進委員会を設立し、資料館建設に向けて活動中である。
永山武四郎将軍の銅像
第一鳥居を過ぎてすぐ右方に永山武四郎将軍の銅像が建てられている。
黒みかげ石製の高さ1.8メートルの台座の上に、軍服姿で高さ2メートルの立像である。
この銅像は、永山神社社殿改築奉賛会が社殿改築に併せて建立したもので、数少ない写真を基に旭川市内の業者が約5ヶ月ほどで製作した。
旭川市内の永山将軍の銅像は、道開拓功労者顕彰像建立期成会が1967年10月、常磐公園入り口に建立して以来2体目となる。
銅像の除幕式には永山将軍のお孫さんである(故)永山武臣さんも参列された。
御 神 輿
明治天皇の大御心は、特に北海道北辺の開拓と北門の守護をお考えになり、永山武四郎将軍の北海道開拓状況の御報告は逐一丁寧にお聞きになっていた。
同じく永山武四郎将軍も特に永山屯田を全道の中核として重きをおいており、明治35年永山神社御神輿御創設を申し上げたところ、御神輿の頭に皇室の御紋章たる16弁の菊の御紋章を拝戴した。
永山武四郎将軍 |
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御神輿 16弁の菊の紋章 |
永山神社例祭 |
永山神社例祭 |
軍刀 指揮刀 軍帽 |
永山武四郎将軍の銅像 |
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